9 意識はなぜあるのか?
意識とは何か?
この質問は、哲学の最難問ともいわれています。この問題には、昔から多くの哲学者が全力を挙げて真剣に取り組んできました。最近は哲学者の側からばかりでなく、脳科学の発展を足場にして科学者の側から、この難問に挑戦しようとして書かれた文献も急に多くなってきたようです(現代哲学では、たとえば二〇〇〇年 アンディ・クラーク『アクセスがクオリアである場合』)。
ところが残念ながら、哲学者の著作にも科学者のものにも、どこにも明快な解答は書かれていません。自然主義の立場をとる哲学者たちが「心理学、神経学、神経生理学、言語学、および計算機科学の総合的共同研究によって究極的には統一的な心脳科学がつくられる希望がある」と述べているくらいが一番明快で楽観的な意見にみえる程度です(一九八九年 パトリシア・S・チャーチランド テレンス・J・セィノフスキー『神経表現と神経計算』)。科学者側の結語としては、たいていは、「脳科学をさらに進め、脳の実験と測定を今よりもさらに精密なものに発展させれば、この難問は解けるのではないか?」というような漠然とした期待が述べられて終わっています。
しかし果たしてそうでしょうか? 筆者は、違うと思います。この難問は、脳をいくら研究しても解けないと思うのです。なぜなら、この難問はもともと存在していないからです。つまり筆者の考えでは、意識などいうものはこの世にありません。人間が、それがあるかのように錯覚しているだけです。
存在しないものの正体を突き止めようとして、いくら研究を進めても無駄でしょう。十九世紀ごろ、永久機関の発明にたくさんの発明家が心血をそそいで研究しましたが無駄でした。もっともそのおかげで、物理学、工学がかなり発展したという副次効果があったようです。意識の研究のおかげで脳科学が発展すれば、けっこうなことです。
本題に戻って、意識はなぜ存在するといえるのか? というよりも、(筆者に言わせれば)なぜ人間は意識というものが存在すると思うのか?
イカには意識がなくて、タコには意識があるのか?
パソコンには意識がなくて、ロボットにはあるのか?
簡単にいうと、人間のようなものには意識があって、人間らしさがないものにはない、と思われているらしいですね。
それと、目が覚めている人間には意識があって、眠っている人間にはない。死んでしまうと、もちろんない。
目が覚めている人に、「あなたは意識がありますか?」と聞くと、「あります」という答が返ってくる。「私は意識がありません」と答える人はいない。 (そう答えるのは筆者くらいのものでしょう。しかし、筆者も、精神病院に連れて行かれるのはいやなので、救急隊員にそう聞かれたら、ちゃんと意識はあります、という答をするつもりです)
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意識とは、そんなものです。
しかし、まじめな話、本当にあなたには意識があるのでしょうか?
時計などの中にはなくて、あなたの身体の中にはある、そういう不可思議なものが存在するのでしょうか? 時計もあなたも同じように物質だけからできている仕組みなのに、あなたの身体にだけ、意識という物質ではない謎めいた神秘的なものが入っているのでしょうか?
それは錯覚ではないでしょうか?
目覚めている人間を観察するとき、見るほうの人間の脳は相手の心を感じます。こちらの視線に反応して、相手が見返してくる。このとき、観察者の脳の中の(辺縁系の)特有な神経回路が活動をします。その活動の自覚が、相手に意識があると感じさせる。猫なんかも見つめると、見返してきますね。これは哺乳類共通の原始的な神経機構にもとづいた神経反応です。
自分の脳が、相手の動物の動きを見て特有な反応をする。相手が自分を見ている気持ちがよく分かる、と感じる。それは、自分の脳の運動形成回路が自動的に相手に成り代って、相手の相手、つまり自分、を注視するという相手の内部の運動感覚を再現することで想像できるのです。その気持ち、その運動感覚を言い表そうとして作られた言葉が、意識、なのでしょう。見たとたんにその感覚を感じるとき、相手の動物には意識がある、と思うのです。
死んだ動物は襲ってこない。眠っている動物も襲ってこない。覚醒している動物は、こちらを注視してから猛然と襲ってくるかもしれない。こちらをにらみつけながら襲ってくるような動物は意識がある、と感じられるのです。こういうものを感じられない人間は、原始生活で生きていかれそうにありません。これは生存に便利な脳の機能です。セキュリティのための一種のアラーム装置ですね。
他人が意識を持つ、と感じる。そこから類推して、自分も意識を持つはずだ、と思う。それで、私たちには、自分も含めた人間がすべて意識を持つ、ということが自明に思えるのです。
人間でない動物は、意識があるのでしょうか? 犬は意識があるか? 当然、ありそうです。猫は? これもあるに違いない、という感じですね。じゃあ、イカは?
ゾウリムシは? 大腸菌は? ・・・と疑問は続く。
これらは大変興味深く、かつ重要な疑問だ、という人は多い。実際、まじめに研究している学者もいます。しかし、本当に、これは重要な疑問なのでしょうか? そうではないという現代哲学の考え方もあります( 二〇〇四年 ピーター・カルーサーズ『動物の意識はなぜたいした問題ではないのか』 )。
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筆者も、そういう考えですね。まず、生物は物質です。物質は物質の法則(物理学の法則)だけで動く。猫が人間を見返す行動も、物質現象の連鎖だけで起きています。テレパシーでこちら(観察している私たち人間)の殺気を感じて振り向くわけではありません。人間も同じ。視覚と聴覚で環境の変化を感知して、適切に反応する。エアコンは室温変化を感知して、すぐモータを稼動する。エアコンにも意識はあるのか? エアコンには意識がなくて、人間にはあるのか? 同じ物質なのに、差別ではありませんか?
意識というものは錯覚だ、存在しない、と言ったほうが、議論はすっきりするはずです。
イカにもタコにもゾウリムシにも、ロボットにも異星人にもエアコンにも、意識などというものはない。どの人間にもない。もちろん私にも、そんなものはない。―と言い切ってみましょう。
でも、私は、この目の前の机とか、いろいろな物が存在することを感じている、つまり、この世界を感じている自分がいる、ということを感じている。目の前の物たちがはっきり見えているということは私が目覚めている、ということだ。それに、私は今、テレビのニュースを見ようとして、新聞を開いてテレビ欄を読んでいる。ということは私に意識がある、ということではないのか? ―という考えが出てきますね。
こういう考えは、もっともです。ふつう私たち人間は、素朴に、目の前の世界が実在していると思っています。その実在するこの現実世界の、ここにある自分の肉体の頭蓋骨の中に自分の心が入っている、と思っています。そしてその自分の心が周りの世界を見つめているのだ、と思っている。自分の心が周りの世界を感じて考え、意図を持って運動をすることで周りのものに影響を与えている。そして周りの他の人間も、私と同じように、頭蓋骨の中にひとつずつ、それぞれの心が入っているのだろう、と思っています。
私たち人間はだれも、自分の頭蓋骨の中にある自分の心は、物心ついた頃からあって、自分の身体と自分の周りの世界を感じ続けてきたし、今もこういうふうに感じているのだから、当然自分には今意識があるのだ、と思っている。世界がこうあるように感じられることは、自分に意識があるからだ。つまり、世界がある、と思うときは意識があるときだ。そう考えると、世界があると感じることと自分に意識があることは同じことだ、ということになります。自分が見ても、自分以外のどの人間が見ても、世界はこのように厳然として客観的にここに存在する、と感じられる。このように(第4章で詳述したように)、人間のだれとも共有することのできる客観的世界がここにある、と感じられることが、自分に意識が� ��ると感じられることだ、と言ってもよさそうですね。さらに、私たちの身の周りの物質世界というものが、私たちが他人の視座に乗り移って眺めることで客観的なものになることを考えると、物心ついて他人の心が分かるようになったと同時に、自分を客観的に見ることができるようになるし、自分の人生のエピソードも記憶できるようになる。つまり、私たちが成長して幼稚園児から小学生くらいになると、意識はかなりはっきりしてくる、といえるのでしょう。
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眠っているときはテレビが消えるように世界が感じられなくなり、目が覚めるとテレビがつくように世界が感じられるような状態に戻る。物心ついてから今までずっと、目が覚めているときは、世界を連続して感じられたし、死ぬまでそうだろうと思える。自分が死ぬときは、たぶんテレビが壊れるときのように画面が真っ暗になるのだろう。ふつう私たちは何の疑いもなく、こう思っています。いつ、こういうことを習ったのでしょうか? 小学校でしょうか? 幼稚園でしょうか? それとも生まれつき、私たち人間は、そう感じるようになっているのでしょうか?
赤ちゃんの頃は、自分も他人も区別がつかないわけですから、ただ自分中心的な主観的感覚だけで動いている。そういう意味では、赤ちゃんは人間以外の動物と同じなのでしょう。幼稚園の頃になると、他人の視座に乗り移って他人の視線で世界を眺めることができるようになる。他人の視座から、その他人が眺める一個の人体としての自分を、自分だと思うようになる。その自分であるはずの人体の中に他人が想像するはずの心を、自分の心だと思うようになる。そういう、他人が持っているらしい心と同じようなものが自分の頭蓋骨の中にもあるのだろう、と思うわけです。物心ついたその頃からは、自分がその一部であるこの現実世界が時間とともに過去から現在まで変化してきたことを、私たちは全部分かってい� ��わけです。
今、この机が見えると言うことは、私のこの心が今、目の前の机を見ている、ということになっているはずだ。私の目の前にこの机があるということは、他人の視座から見ると、私という人体がこの机を注視していることが分かるはずだ。今、私が新聞を持ち上げたということは、私には心があって、その心が新聞を持ち上げようとして腕を動かして新聞を持ち上げたはずだ、と見える。他人からはそう見えるはずだ。私が覚醒している以上そうでなくてはならないはずだ。つまり、私には意識があるということだ、と思えるわけです。
日常的には、こういう感覚を持って人々と会話すればうまくいく。犯罪の容疑者が「私には意識というものはありません」などと言ったら、検事をかんかんに怒らせてしまうでしょう。しかし、拙稿の見解では、このような世界のモデルは、主観的感覚からくる自分の覚醒の感覚を、無理やり客観的物質世界にある自分の身体の動きに切り貼りしたものです。私たち人間は、いつもそうしている。しかし、動物は、ふつう、脳を使っていても、こういうことはしない。人間は、大脳を使って物質世界とその中の自分自身の(錯覚による)イメージを作り出し、無理をしてそれに内部感覚を貼り付けているところがあります。だから、主観と客観を峻別しようとすると、どうしても矛盾から逃れられない。主観と客観のつな� ��目の自分イメージのところに矛盾が皺寄せられてしまうわけです。
科学者は、自分の主観は別に置いておいて、世界を客観的なものとみなして観察する。この場合、自分の主観、つまり科学者自身の心とか意識とか意図は、どこにあるのでしょうか? 実は科学者は、(うまく説明する自信がないので人には言いませんけれども)それは自分の脳の奥のほうにあるはずだ、と、実は素朴に思っているのです。しかし、心とか意識とか意図とか、物質ではないものが物質である脳のどこかに潜んでいる、と考えるのは、結局、無理があります。科学者は、無意識のうちに心身二元論の間違いを犯しているのです。しかしそうすることで、悩みなく科学研究を続けることができるわけですね。
ところが、実在する物質世界を所与のものとして研究を進める科学が、(ついうっかりと、安易に)意識を脳の機能として説明しようすると、心脳問題のパラドックスにどこまでも深く落ち込んでいくしかない。私の主観的な経験が脳の客観的な物理現象だといわれても、脳の客観的現象は誰もが見れば分かるのに対し、私の主観的な経験は私にしか分らないから、両者は同じことではない(一九七四年 トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどういうことか』)という議論はもっともです。たとえば、脳科学者が自分の視覚神経系の色感覚機構を研究し尽くしても、それは自分が直接感じる色の経験とは、はっきりと違うものである(一九八六年 フランク・ジャクソン『メリーは何を知らなかったのか』)というわけです。
これらの論考は、科学者が信じているような物質世界のみが実在であると思い込む物質主義一元論(唯物論)の誤謬を指摘した現代哲学の傑作です。まあ、昔から言われている「百聞は一見にしかず」という諺を分析哲学してみた、というような論文ですね。ちなみに諺といえば、「わが身をつねって人の痛さを知れ」というのもある。こちらは、脳神経系のCファイバー神経細胞が活性化されると痛みという知覚が起きるがその物質変化をいくら詳細に調べても、痛みという経験は得られない(一九八〇年 ソール・クリプキ『命名と必要』)という古典的な分析哲学の理論を表している、わけです(痛みについては、11章で詳しく論じる予定)。
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